「この島の花が気に入ったかい?」

 ある庭先の道端に咲く花の写真を撮っていたときのことです。振り返ると一人の老人が立っていました。しゃがんだ姿勢のまま見上げたので、彼の顔は逆光になっています。その影になった顔には、刻み込まれた皺をいっそう深くした微笑がありました。

「レッドカンピオンという花だよ」

 ようやく聞き取れた言葉でした。シェトランド地方には独特な発音があり、ただでさえ英語が苦手な私にとって難解極まるものです。でも「ついて来なさい」ぐらいなら解ります。

 彼は胸を張って歩く偉丈夫です。年を感じさせない背中を追いかけて家の裏庭に行くと、青く塗られた雨どいに寄り添うように咲く白い花がありました。

「これはホワイトカンピオンだ。普通は海岸の絶壁に咲いていて、あまり見ることが出来ない花でね。ほら、ああいった岩場だ」。海から屏風のようにそそり立つ、高さ十数メートルの岸壁を彼は指差しました。とにかく大きな風景の島です。島を囲む三百六十度の水平線につい目がいってしまいます。そんな環境に暮らしていながら、足もとの美しさをおじいさんはどうして見逃さないのでしょう。

 

 フェア島に来た理由を私はおじいさんに話しました。すると彼はゆったりと微笑み、手招きを一つして歩き始めました。今度は何を見せてくれるのか、後を追いかけます。

 そこは納屋を改造した工房でした。木屑が床に降り積もり、少し雑然としています。中央の作業台には作りかけの紡ぎ車が、そしてその傍らにはほぼ完成したものがありました。それは、かつて私が確かに見た光景です。

「この二十年間で62台作ったよ。日本からも注文があるんだ。どうだい、やってみるかい?なに、難しいことはないよ」

 彼は紡ぎ車を床に下ろし、あちこちに油を注しながら調整を始めました。ペダルを踏んでホイール(回転盤)とフライヤーの回転を確かめます。そして、彼の左手に軽く握られた羊毛から、音もなく毛糸が出て行きました。

 

「さあ、やってごらん」

 羊毛のかたまりを渡されて私は紡ぎ始めました。でも、おじいさんの手つきをしっかりと真似ているはずなのに、なんだか訳のわからないうちに毛糸がすぐ切れてしまいます。

「紡ぎ車に羊毛を引っ張らせるのではなく、手で羊毛を引き伸ばしながら紡ぎ車に送り込むんだ」

 彼の言うように毛糸をつむぎます。その毛糸のように細いのでしょうけれど、フェア島と繋がっていくたしかな感覚が湧いてきました。

 

 翌日、思いがけない紹介で、島でバイオリンを作っている青年の家を訪ねました。

「さあ入って。ここの小学校で日本についての授業をしたんだって?」。突然の訪問ですが、快く招き入れてくれます。彼の名前はユーエン。若く小柄な彼には、繊細さと、孤島で暮らす男のタフで素朴な匂いがありました。

 

 作業の様子をしばらく見学させてもらいます。バイオリンのネックを削り出す工程です。前後に大きく足を広げ腰を入れ、手元に神経を集中して、ただの木片にたおやかなラインを刻んでいきます。そのときの彼の横顔。十年前のテレビ画面の中でバイオリンを弾いていた少年と重なっていきました。

「ふう、お茶はいかがですか?」。テーブルを囲んで、私たちは両手でマグを包みます。

 「僕のおじいさんの所に行ったんだってね」。昨日会った紡ぎ車の老人はやはりそうだったのです。小さな島ならではの、繋がっていく出会い。私は、ここに来るきっかけになったテレビ番組のこと、ユーエンのおばあさんのセーターに魅せられたことを彼に話しました。

 「つまり、十年前の僕と僕の家族を知ってて、そのことが君をフェア島に導いたんだ。面白いね」

 それは私も同じ気持ちでした。風景も風も、人生のリズムも違う日本で私が時を過ごしている間にも、ここでも同じ時間が確実に流れていたのです。すべてのものに平等に流れていく時間の不思議さ。考えてみればあたりまえのことです。でも世界って面白い。

 

 ユーエンは奥の部屋からセーターを一抱え持って来ました。

「おばあちゃんが、僕や僕の子供に編んでくれたものだよ。どうぞ見てください」

 彼の祖母であるアニーさんは、ノルウェー国王への献上品を編んだこともあるフェア島一の手編み名人です。しかしユーエンが言うには、もう売り物は編んでいないとのこと。フェア島一、つまり世界一のフェアアイルセーターは、今や孫や曾孫だけのものです。

 アニーさんが編んだセーターは、美しい配色と模様で、編み目が整然と並んでいました。ゆっくり一目一目を見ている私を、深い目で微笑みながら、そして誇らしげにユーエンは眺めていました。彼のおじいさんが、妻の編んだセーターを誇らしげに見せていた、十年前のあのときのように。