シェトランド諸島のニットの特徴は、柄模様の多様さと、鮮やかな色彩です。まるで一枚の絵のように、抽象化された柄でセーターは埋め尽くされています。華やかな春の野、重厚な石の城、光によって色を変える海の深遠など、一着ごとにさまざまなイメージを発散しています。雲が太陽を覆えばたじろぐほど陰鬱な景色になるこの地方で、それは別世界の色彩に見えます。

 そしてもう一つの特徴は、手編みの技術でしょう。

 シェトランドの首都ラーウイックは、自動車さえ視界から外せば中世に戻れる町です。灰色の石造りの建物が寄り添うように並び、なめらかに磨り減った石畳の路地がその谷間を錯綜しています。この一郭にあるコミュニティーホールで、シェトランドの歴史や文化を紹介する催しが週三回開かれています。そこでは、ニット文化を築いてきた老練な女性たちの、手紡ぎや手編みの技を披露していました。 

 その部屋に入った人の両目は、入り口のそばに座っている二人のおばあさんにまず釘付けになりました。右手の人差し指と中指に一本ずつ掛けた二色の毛糸を彼女たちは巧みに操り、すばやく精密な指さばきで、複雑な模様のセーターを編んでいきます。あまりの速さに指がかすんで見えそうです。なのに彼女は手元を見ることなく、目を丸くしている私たちを楽しそうに眺めています。

 立ち並ぶたくさんのセーターの間に、大きな糸切りバサミの形をした銀色のトロフィーがありました。1頭の羊から毛を刈り取り、手紡ぎして、手編みのセータを造るまでの速さを競う「羊からセーター」という世界大会でのもので、二位に二時間以上の差をつけての優勝だったそうです。

 会場に集っていたおばあさんの一人、ジョンソンさんは、その技の秘密をこう語ってくれました。

「いまのシェトランドでおばあさんと呼べる人は、物心つくかつかないうちに手編みを教え込まれたんだよ。家計を助けるためにね。少しでも手があくと編み棒を動かしたものさ」。そしてきっかけはどうであれ彼女たちは、シェトランドの編み物を、世界に認められる文化にしていったのです。「強かに生きる」というのはこういうことでしょうか。

 

 シェトランドニットの原型はフェア・アイルセーターだと言われています、つまりフェア島は伝統のルーツであり、私はこの島でさらに素晴らしい手編みの技を見ることを期待していました。しかしそうはいきませんでした。

 フェア島の公民館で、フェア・アイルセーター製作の実演がありました。「マーゴよ」と自己紹介した中年の女性の前にあるのは、シェトランド本島で見た三本の編み棒とニッティングベルトではなく、シンガーの手動編み機です。編み棒が静かにカチカチとあたる音ではなく、編み機を左右に走らせる「シャーシャー」という音がそこにはありました。

「機械編みなのですね」

「そうなの。手編みだと時間がかかりすぎるから、今じゃもう島の女性は、手編み機を使っている人がほとんどよ」 

 

 土産品や通信販売などでフェア・アイルセータは商業ラインに乗っており、仕事の限られるフェア島での重要な産業になっています。編み機を使えば一着14時間で仕上がるのに比べ、どんなベテランでも一着百時間はかかる手編みは商売として成り立ちません。

 あの日、アニーお祖母さんの手編みセーターを見ながらユーエンはこう言いました。

 「島の女の人が今編んでいるセーターはあまり好きじゃないな」。彼の、家族との穏やかな生活には、カチカチと編み棒の触れる音が、伝統を編み上げていく音がいつもあったのでしょう。そんな記憶が、動いていく時代への戸惑いを彼に感じさせています。

   

  フェア島のニッターは、伝統よりも変化を選んだのでしょうか。

 マーゴさんがゆうには、編む手段は変わってもフェア・アイルセーターの特徴は守っているし、今も島の女性は手編みの達人だそうです。しかし私は、何人かのニッターの話を聞くうち、伝統とは目に見えないものではないか、という気がしてきました。

  

 シェトランドのセーターがなぜ今のようなものになったのでしょう。まず、そのカラフルな色使いは、よく売れる目玉商品となるために取り入れられました。また、小さな模様が連続するボーダー柄であれば模様を覚えやすく、編み目の目数を数える手間も減り、何を見ずとも編むことが出来ます。そして、胴体を裾から肩まで輪編みして、袖ぐりや衿ぐりはハサミで切って穴をあけるというシェトランド独特の編み方については、「これが一番速い方法なのよ」とおばあさんたちは力説していました。すべては生活の糧を得るための創意工夫から始まったのです。

 海からの冷風に耐えながら孤島で生きていくために、フェア・アイルセーターは生まれました。そして今も、セーターを編む一番の理由は、暖かい暮らしを送るためです。フェア・アイルセーターの伝統とは、その技術というより、たくましく生きていく島の人々そのものなのだと、私はいま強く思っています。